フランス留学生の日記

時々更新!フランスでの日々を投稿しまーす!

本棚5 -河井継之助本-

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皆さん、こんにちは!

 

本日は私が中学生の頃から歴史上の偉人の中で1番大尊敬している河井継之助の関連本を何冊か紹介したいと思います^ ^  

私の携帯の待受画面は彼です笑

 

来年2022年に彼が主人公の映画『峠』が役所広司さん主演で上映されますのでそれまでに是非読んでみて下さい!!

 

*最初に断っておきますが、河井継之助の危険さを承知の上で私は彼を尊敬してます。
「反薩長‼️」の様なイデオロギー的嫌悪や、会津藩への判官贔屓的同情でやみくもに彼を尊敬する事は百害あって一利なしと言えます。

 

さて、本日紹介する本は、

1️⃣司馬遼太郎 『峠』

2️⃣稲川明雄 『決定版河井継之助

3️⃣河井継之助 『塵壺』

4️⃣稲川明雄 『河井継之助のことば』

の4冊です!!^ ^

 

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↑実家の私の本棚にある河井継之助関連棚です^ ^

1番左の『河井継之助傳』は全ての河井継之助の伝記の下地となった本で、大学3回生の時に東京・神田の古本屋で3万円で売られてたのをお願いして1万5千円で購入した昭和3年版です、2014年4月23日撮影。


​​*河井継之助について*

​​河井継之助(1827年〜1868年)は幕末の越後長岡藩(現在の新潟県長岡市)の武士です。

陽明学に傾倒し、幕末風雲急を告げる中、藩主の信任を受け藩政改革を断行し、成功する。
しかし錦の御旗を手にする薩長を中心とする新政府軍が長岡へもやってきます。
いわゆる「武装中立」を説いて新政府軍の軍艦岩村精一郎(土佐藩)に益なき戦をするべきではないと進言するも交渉は決裂(小千谷会談)。
長岡藩も奥羽越列藩同盟に参加し、3ヶ月に渡って新政府軍を押さえ込むも敗戦。
継之助自身も最後の長岡城奪還作戦(八丁沖作戦)の最中左膝に銃弾を受け、その傷が元で会津へ向かう途中、現在の福島県只見町にて戦死。享年42歳。

 

​*私と河井継之助の出会い*

​私は片道1時間半かけて地元埼玉から東京の中学まで通っていたのですが、その通学時間の中で貪るように司馬遼太郎作品を読みました。

まるで自分がその本の中にいるのではないかと思わせてくれる様な不思議な感じで、次の本を読むのが楽しくて楽しくてたまらなかった。
もちろん司馬遼太郎歴史観をそのまま受け入れる事は出来ませんが、彼が「国民的作家」と言われるのがわかる気がします。

そんな中、中学2年生の終わり頃読んだのが河井継之助が主人公の『峠』でした。
上中下の3巻を読み終えた後、不思議と「自分はこの人を目指そう。

この人の様に生きないとダメだ」と思いました。
今でもその時の鳥肌というか武者震いは覚えてます。

 

1️⃣司馬遼太郎 『峠』(上中下) 新潮文庫


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司馬作品ではもちろん坂本竜馬土方歳三大村益次郎豊臣秀吉など魅力的な歴史的人物を扱った作品は読んでましたし、どちらかと言うと峠は遅めに読んだ本でしたが、直感的に上記の様に思った人は河井継之助が初めてでした。

*この本には史実とは異なる事が書かれていますのであくまで私と河井継之助を出会わせてくれたという点と小説としての面白さという点でおススメします!!

 

2️⃣稲川明雄 『決定版河井継之助』 東洋経済新報社

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↑その名の通り河井継之助の生まれから亡くなるまでを時系列でまとめてくれている本です!
とりあえず継之助について知りたい方はこちらをおススメします!^ ^
因みに著者の稲川さんは長岡の河井継之助記念館の館長です!

 

​*河井継之助に惹かれた点*

①彼の性格

彼はとても合理的で頭が切れる。
陽明学(体制べったり朱子学の直すべき所を示したのが陽明学。自らが主体となる。それを軸に自分の心に即して世界を形成するという学問)に傾倒していた。
それは彼にとって生来の性格的な所から来るものだったのでしょう。
子供の頃から剣術や馬術の師匠のいう事は聞きませんでした。あなたの言う事は実際には役に立たない!と思っていたからです。
つまり「社会ではこれが常識」という「常識」をいつも疑ってたんですね。

「これが忠義です。これが親孝行です。こうやる事が道徳なんですよ」や「こう生きていくのが幸せのモデルですよ」と外から言われて、それに従って生きていく事が出来た江戸時代や戦後はそれで良かったのかもしれません。
しかしこれからは自分で新しい「軸」を見つける為に勉強していかないといけないと私は思ってます。
なので余計継之助の様に己の「軸」を常に持ち続け、それを曲げずに生きた人に惹かれるのかもしれません。

 

3️⃣河井継之助 『塵壺』 東洋文庫

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↑これは継之助が残した唯一の著作で、32歳の時に生涯の師となる備中松山藩家老山田方谷の下へ学びに行く(その後九州の方へも行ってます)間を記した道中日記です。

結構面白いですよ😁

合理的な男に思えても、富士山の麓まで来て、登ろうかそのまま先を目指そうか迷っていて、結局登らなかったのですが、途中で登らなかったのを本当に後悔してるんです笑笑

あと途中で大雨が降ったので、蓑(今でいう合羽)を買うか買わないか迷って結局買うんですね。でも買ったら天気は晴れてその後雨は1度も降らず。荷物にはなるだけでなく、使えない。なのでまた買った事を後悔するんです笑←結局この蓑は師の山田方谷の家に置いて帰り、後に方谷が継之助の実家に送り、今は長岡にある「河井継之助記念館」に展示されてます^ ^

英雄も意外と普通の人だったんだなぁと思えて親近感が芽生えます😆
日によっては「晴」しか書いてない日もあるのでそれも含めて継之助なんですね^ ^

 

②未来を見通す先見性と行動力
彼は自分の軸に陽明学を置き、それを磨きながら備中松山藩(現在の岡山県高梁市)で藩政改革を成功させた山田方谷の下で学び、九州の方へ足を運んで日本各地の情勢を逐一観察します。
当時の32歳で勉強の為に新潟県から九州まで行くんですよ?凄くないですか?笑

でもそこで「幕府はそう長くないかもしれない」と気付いた。
で、時代がどの様に転んでもいい様に長岡藩の建て直しを目指すのです。 
詳しくは長くなるので割愛しますが、本当に見事な改革です。
自分のいる世界が全てという考えがなく、全国各地を自分の目で見て観察し、自分の藩に対してさへも一歩引いて見れてる所が好きなんです。

 

③独立独歩という思想
彼はよく「​武装中立​​」を目指したと言われています。これには批判が今でもあります。夢想であり、夢物語だと。


確かに長岡藩という7万4千石(実際は15万石くらい)の小さい藩が薩長会津の間で挟まれて何が出来るの?という疑問は誰だって持ちますよね。
私だって彼のそばに居たら絶対に損得で考えて「あなたの正義はわかりますが、ここは薩長に恭順しましょう」と伝えてたと思います。
結果的に継之助は負けて長岡の街を荒廃させてしまった。長岡市民の中でもその評価は今でも分かれるといいます。


しかし時代がどの様に変わっても、しっかりと自分達の力で未来を切り開けるように力を付けておくというその考え方が好きなんです。
他の藩の様に「なんか薩長が強いらしい。徳川も終わりだ、恭順だな」みたいな皆んなが右行くから俺も右行く!的な考えがないのが好きなんです。
なんかフランスのシャルル・ド・ゴール元大統領の様な気がしませんか??

その太々しいところが。


4️⃣稲川明雄 『河井継之助のことば』

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↑ここには彼が生前から周りの人に語っていた言葉が書かれています。
私が好きな彼の言葉に「天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人になれ」というのがあります。
平々凡々のような生き方をするなという意味です。
この言葉に彼の生涯が詰まってる気がします。

私は昔から自分で主体的に動かないで人に付いていくばかりのこの様な考え方の人が本当に苦手でした。
社会人になって意外とこういう人が多いなぁと思ったのは何かガッカリしました。

 

話を戻して、
私は本当に継之助が「武装中立」を目指したのか?と疑問に思うところもあり、また『峠』に描かれている様な武士としての散り様を美しくしたという評価には?しかありません。
これにはまだまだ彼について調べていかないといけないと思ってます^ ^

 

以上、4冊です!
やはり長くなってしまった。

大学生の時、『塵壺』を読みながら彼の足跡を辿る為に岡山県高梁市山口県岩国市の錦帯橋へ行ったりしました。
もちろん長岡の「河井継之助記念館」には何回も行きましたし、福島県只見町にある「河井継之助記念館」へも2度行きました。

 

私も彼のように平々凡々と生きず、また色々と世界を見て、色々な事を吸収して、世の中の為に還元出来ればと思います^ ^

 

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↑この写真は『峠』を読み終わった中学2年生の終わりに実家の私の部屋の勉強机の前に貼った河井継之助の写真です😆ここまでくるとちょっとヤバイ?笑