フランス留学生の日記

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河井継之助を辿る旅③〜岡山県高梁市〜

河井継之助を辿る旅3話目は、岡山県高梁市へ行った話。

2014年1月13日

岡山県高梁市に行ってきた。こちらのお城は備中松山城↓で、実はここはマニアの中では初代「雲海の城」として竹田城より早く知られていたお城です。

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高梁市は1859年、河井継之助が生涯の師である山田方谷に師事するために訪れた所。

 

まずは現在のJR西日本伯備線方谷駅辺りにあった方谷の私塾(長瀬塾)↓を訪れた。

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※この駅は日本の駅の中で唯一人名が駅名になっている駅です。

駅を出てすぐある山田方谷を偲ぶ碑↓です。
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この辺りは本当に落ち着いた静かな所で、昼間なのに聞こえるのは高梁川の川音と断続的に通る車やバイクの音だけだった。

 

河井継之助は九州遊学を挟んで約半年間ここで師事したのち江戸へ戻るのですが、その時彼を見送る山田方谷に対して、高梁川の対岸にいた河井は三度土下座してその別れを惜しんだといいます。
その時土下座した場所(高梁川を挟んで南西側の国道180号沿い)には大きな榎があったのが、その榎が「見返りの榎」↓として当時の姿のまま残っており、それを見て来た。

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日記

この時程私はこの榎になりたいと思ったことはなかった。この榎は155年前に山田方谷河井継之助を見ている。下に降りて彼と同じ視線に立ちたかったが、降りることはできなかった。

 

その後、備中高梁駅で降りて備中松山城へ。

何と言っても備中松山城↓は日本一高い山城で、景色は抜群。

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駅で城までの行き方を駅員さんに尋ねた所、近くにいたおじさんに「駅から備中松山城まで歩いたら、成人男性でも90分はかかるよ。タクシーの方がいいよ」と教えて頂いた。でもそう言われると歩きたくなってしまい結局歩いた。確かに山道でかなりキツかったが、40分程で登った。
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現存天守かつ山城ということもありやはり素晴らしいお城だった。

 

帰りは体力を考慮してタクシーで下まで行き、その跡備中松山藩の城下町を散策。

タクシーの運転手さんがとてもおしゃべりな方で、数日前にお笑い芸人のU字工事を乗せたと言っていた。とても礼儀正しくて好青年だったとの事。

 

タクシーを降りてからは歩いて各所を巡る。

山田方谷の私塾「牛麓舎」跡↓。

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河井継之助が泊まった水車跡↓。河井の足跡を今に残してくれている所です。中には入れませんでした。
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備中松山藩の藩校有終館跡↓で、ここから明治維新以後の日本に貢献した人材を多く輩出した。
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河井が泊まった花屋跡↓。
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山田方谷の人徳からか、市内で彼の銅像↓をいくつか見た気がする。
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【おまけ】

河井が山田方谷の所を一旦離れて九州へ向かう時に通った岩国城錦帯橋↓。

私も2014年3月に行ってきた。

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あの河井が「錦帯橋は城の大手で聞きしに勝る趣なり」と褒め称えた錦帯橋(彼の旅行記『塵壷』に残しています)。私もその趣もさることながら河井の様に感動した。

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以上、岡山県高梁市を訪ねた話でした。
幕末の大政治家山田方谷がここで改革を成功させ、河井継之助がここで学んだ。
河井の死後、彼の家族を何かと気遣ったと言う師匠山田方谷と河井の師弟関係を超えた関係に胸が熱くなりました。