フランス留学生の日記

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河井継之助を辿る旅②〜新潟県小千谷市〜

昨日の続き↓です!

masafra.hatenablog.com

 

2013年11月29日〜12月2日の間に実は長岡市だけでなく小千谷市も訪ねた。

何故小千谷市なのかと言うと、慈眼寺(じげんじ)という長岡藩が北越戦争に入るきっかけとなる

小千谷談判が行われたお寺を見学する為だ。

小千谷談判とは?

1868年5月2日、越後長岡藩家老・河井継之助と新政府軍軍監・岩村精一郎が小千谷市の慈眼寺で行った会談のこと。ただ交渉はたった30分で決裂し、長岡藩が奥羽列藩同盟(長岡藩の加入により越後各藩が同盟に加わり奥羽越列藩同盟へ)へ加わり北越戦争へ突入してしまう幕末史においては歴史的な会談です。

薩長会津の調停を提言する河井に対し、小藩の無能な家老という偏見から相手にしなかった当時24歳の岩村

振り返るたびに何とかならなかったのか。。と思う物です。

 

話を戻す。

当日見学したい旨を電話で伝え、時間通りに行くとお寺の前住職さんが入口で私を待っていてくれた。

 

慈眼寺が経営するお寺の真横にある幼稚園から子供らが遊びにふける元気な声が良く聞こえてきた。

 

早速会見の間へ案内して頂く。

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一通り案内をして頂くと「もしまだ居たい場合はまだここに居ても構いません。終わりましたら隣にいますので声をかけて下さい」と言われ、1人で30分ほどここに留まる。
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日記

歴史が大きく変わった場にいる感動が私を襲った。前住職さんに教えていただいた河井が座ったであろう位置に腰掛けてみる。とにかく彼と同じ目線でこの部屋を見てみたかった。背負っている物が違うため、彼の覚悟は頭ででしか分からない。私に出来ることは彼と同じ目線に座るというただそれだけだった。

この部屋には先々代の住職さんが集められた歴史的な物が幾つか展示されていた。

 

見学が終わり、言われた通り声をかけると前住職さんから「せっかくだからお茶飲んでけ」と仰っていただき少しお邪魔した。

 

お話を聞くと前住職さんは88歳でその時は89歳の奥様もいらっしゃった。少しの予定が2時間も話してしまった。

慈眼寺の話。前住職さんのお父様の話。戦争の話。ご家族の話。今の政治の話など。
私は、祖父を両方とも知らないので、男目線の戦争話は初めてで生々しく感じた。

 

印象的だったのは司馬遼太郎氏が『峠』を書くにあたって慈眼寺に来られた時の写真やお話を聞かせて頂いた時だ。

その当時ご夫婦はたまたまお寺に居らず、お父様が司馬氏を案内されたとのこと。とてもシャイな方で司馬遼太郎ですと言われるまで気が付かなかったらしい。


とても元気な方で、この前住職さんは歴史が好きではないらしく、中越地震の時、慈眼寺を潰そうとしたみたいです。笑
弟さんに大反対され今に至ると仰っていた。

日記には当時お話しした事が詳しく書いてある。

案内してくださった前住職さんから面白い話を伺った。戊辰戦争の時、長岡藩と薩長の双方とも小千谷に物資やお金の徴収に来た。ただ小千谷の人たちは長岡藩が負ける事が分かっていたので薩長側の方へ多くの物資を送ったとのこと。確か、会津でも同じ様な話を聞いた。会津武士については白虎隊はじめ涙なしに読むことも見ることも出来ない話がたくさんあるが、重税で苦しむ会津の農民達は会津の味方をほとんどしなかった。この視点から戊辰戦争を見ると武士社会は滅びるべくして滅んだ事が分かる。歴史はいろいろな視点があって面白い。

後日感謝の手紙を書いたらお返事↓をいただいた。

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それ以来小千谷へ行けていないのが残念だが、日本へ帰ったらまた伺いたいなぁと思う。

 

以上、小千谷での話でした。

歴史を通しての出会いに感謝するばかりでした。学校の歴史の教科書を常にアップデートしていく細かい作業の様ですが、この視点は常に持っておきたい物です。だからこそ歴史は面白い‼️