皆さん、こんにちは!!!
はじめにお伝えします!この投稿は、
。。閲覧注意です。。
今から7年前の2015年1月18日に友人と東日本大震災と福島第一原発事故の影響を受けた街(浪江、大熊、楢葉、富岡)を訪ねました。
本日は東日本大震災から11年という事で、その時の写真と当時の日記に書いてある事と一緒に投稿したいと思います。
※その当時、私は宮城県で地方公務員をしていました。
私にとって東日本大震災を考えるきっかけは何かと言いますと、宮城県の親族が軽く被災したことと、この震災が日本社会に投げ掛けた影響について考えたいという理由でした。
そんな時私の友人が福島第一原発でボランティア活動をしていたので、本やネットだけではない福島についての「生の声を」色々と教えてくれました。感謝です。
日記に沿って当時の流れを記します。
1月18日朝友人の車で友人の実家を出発。
友人から福島在住者が東電から支給されるマスク↓をもらい、危ないところはこれをつけてと言われる。
運転は友人。
線量の高い所を常に調べながら、なるべくそこを避けながら車を進める。
ネットで「死の町」と言われている街は警察官がバリケードを張って入れず、特に浪江町は午前6時から午後17時までしか入ることが許さない。
車の通過は認められても、バイクと徒歩ではダメ。
倒壊した家も当時のまま残っており、地震の怖さと放射能の怖さを街の静けさから感じる。
「原子力明るい未来のエネルギー」という看板↓が切ない程の佇まいで残っていた。
お昼前に福島原発↓に到着。
国道から原発を望む。震災から4年が経とうとしているのにやはり異様な雰囲気だった。
日本サッカーにとって初のナショナルトレーニング施設と聞いたが現在は原発事故の中心センターとのこと。しかし聞いた所によると原発事故関連で働く方の報酬は現在とてもいいみたいだが、命をある程度削るのではないか?とも言われているみたいだ。命かお金か。それは人の価値観によるのだろう。
最後に富岡駅↓に行く。
震災後4年になるのにこの地区は殆ど当時のまま残っている。ある意味怖い。海なし県出身の私には海の怖さ知るに十分でした。
上記の日記で書いた街に残っていた地震の爪痕が生々しい倒壊した家↓です。
その後はそのまま宮城県へ帰る。
1日かけて福島県の浜通りを見せていただいた。あまりにも原発の被害が大きすぎる。我々の日々の生活を支える事が出来きる安全な他の技術の確立を目指すべきか、原発の依存度を最小限に抑えるべきだと強く思った。
人々の生活を支える物が、人々の生活を破壊しては本末転倒もいいところだ。
そもそも人がいての政治だろ、経済だろ、企業だろ。人の命を危険に晒すのは避けなければならない。
大学時代読んだ『プロメテウスの罠』で知った土地を実際眺めてみるとやはり胸が締め付けられました。
以上、2015年1月の福島沿岸部を訪ねた時の話でした。2016年3月に上記の富岡駅へ伺った時は駅前は更地になっておりましたし、今は復興道路も繋がり被災地の交通も大分回復したと思います。
100年後、1000年後まで日本の歴史に残る震災を経験し、しっかりこの眼に残しておきたいと思っていたので皆さんにもぜひ見ていただきたいと思い投稿しました。
※不快な思いをされた方がいましたら申し訳ごさいません。