何故福島県只見町なのかと言うと、こちらは河井継之助終焉の地だからです。なのでこちらにも河井継之助記念館があり、その終焉の間が当時のまま保存されているのです。
2014年4月23日
当時は大学を卒業してたまたま埼玉県の地元に帰省していて、埼玉の地元から新幹線で長岡へ行きそこから在来線で只見町へ向かいました。
日記
電車で移動中3分程の少し長いトンネルを抜けたら一面に雪が残っていて、かなり眩しかった。
まさに川端康成『雪国』の第一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の様だった。
日記
河井継之助記念館まで歩く。雪解け水が山から川へ落ちる音が凄かった。
だからなのか川も忙しなく流れていて、こんな光景は利根川•荒川が通る水資源豊かな埼玉県でも秩父か長瀞町にしかないのでは?と思った。景色もそっくりだった。
記念館に到着。見学者は私のみだった。そして展示自体は多くはない。
ただ、河井継之助終焉の間↓が当時のままの姿で残っている。本当に凄い。。。
会津へ向かう途中だった河井継之助は北越戦争で受けた傷がもとでこの地で42年の生涯を終えた。
日記
彼ほどの人物にとってここで亡くなるのは無念だっただろうことは彼の残した「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の俳句からも読み取れる。ただ終焉の間を当時のまま残してくれた人たちに感謝の気持ちしかない。
見学後、記念館横の河井継之助のお墓↓へ行く。しっかりとお祈りをして長岡から持ってきたカップ酒を置く。
その後時間があったので只見駅まで2時間少し歩く。コンビニもなく、そもそも民家も疎らな通りだった。
日記
彼の生涯を追っていく中で気付いた彼のブレずに信念を貫くその荒っぽい性格は、私を魅了するに十分だ。私も「日に新た、日日新た、日に新た」と河井継之助の様に自分の志を達するべく精進していこうと思う。
以上、福島県只見町の話でした!
ある人からはそんな事のためにわざわざ行く様な所なの?と言われました。
ただ私にとっては彼を辿る旅をすると決めた時から行かなければならない所でした。
中学2年の終わりから現在に至るまで変わらず大尊敬している河井継之助。ただ私自身河井継之助を尊敬する危険性を十分感じてます。それこそ俄かファンが彼を知ったように語り、加えてこの人から変な影響を受けるというのは世の中にはあまり良いものではないと思います。
継之助の師匠である山田方谷も言ったように。
ただ、彼の本質の様なものはこれからの社会では必要となると強く思う。
他から与えられたことを言われた通りにやっていればいい時代はもう過ぎる。
日々是勉強。頑張らねば。
この旅が終わったから河井継之助について全てが終わり!と言うことではなく、これからも河井継之助を究めていきたいと思います。