フランス留学生の日記

時々更新!フランスでの日々を投稿しまーす!

本棚27『Discours de la servitude volontaire』La Boétie

前回の君主論↓に引き続き今回もかなり重たい本の紹介。

masafra.hatenablog.com

 

今回紹介するのは16世紀前半に活躍したフランスの裁判官で人文主義者だった、Étienne de La Boétie(以下ボエスィ)の

 

 Discours de la servitude volontaire(自発的隷従論)


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私が読んだフランス語版はこちら↓から見れます。

https://amzn.eu/d/es1XE25

 

日本語版もあるみたいなのですがそれはこちら↓から。

 

※今回もかなり長い内容です。ご了承の程。

 

Étienne de La Boétieって誰???

エスィは1530年11月1日フランス南西部のサルラ=ラ=カネダで法官貴族の子として生まれました。オルレアン大学で法学や人文学を学び、その卒業論文として書いたのが今日紹介する『自発的隷従論』で、なんと彼が23歳の時の作品。因みに彼の死後ボエスィの論文を保管していたモンテーニュは彼が18,19歳の時に書いたと言っています。

大学卒業後は父と同じく法官の道に進み、ボルドー高等法院で評定官になり、そこで終生の友といえるフランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュと出会う。

が、1563年8月18日当時流行っていたペストによって死去、享年32歳。

 

私とこの本との出会い

私はこの本を今年2月24日トゥールーズのいつも行く本屋さんで購入した。

この日は県庁に行って滞在許可証を受け取りにパリから帰っていた日だった。この本を購入したのはその前の日に政治学を学ぶフランス人エリートが必ず読む本をいうフランスのどこかの新聞記事を読み、その中の1冊にこの本があったから。

正直ボエスィについては全く知らなかった。すぐにネットでどんな内容の本なのかを調べて大枠を掴み少しずつ読み進めていった。全体で50ページほど。

が、なんせこの本が書かれたのは16世紀前半のフランス。使われている単語や表現、文法が無茶苦茶難しくて1人では全然読めなかった。。。

なのでフランス人の友人、大学院に入ってからできた友人とカフェで勉強会?的なものをやりながら、またフランス人パートナーにも助けてもらいながら何とか読み終えた感じ。正直、巻末の現代フランス語の解説は本当に有難かった。

 

本の内容

まず最初にボエスィは、

 

なぜたった1人の圧政者(権力者)に多くの人々が従ってしまうのか?

人々が自由という自然の権利さへ自然なものと思わなくなっているのはなぜか?

 

という問いがこの論文を書いた目的と書いている。

 

そもそも人間(動物でさへ)は自然状態において自由である。

※神に仕え人間の支配者である自然が与えた権利と教えをもって生きれば我々は理性のしもべとなり誰にも隷従したりしない。また、自然は人間それぞれを同じ様に、だが違いを付けてを作った。これはその違いを映し出させて、兄弟のように助け合いの精神(fraternité  博愛)を育むため。こんな自然状態において誰かを隷従させることなどあり得ない。

 

※この部分を読んでふと、金子みすゞの「私と小鳥とすずと」を思い出した。

個人的にはこの考え方が凄い好き。違いがあるから人は他人に嫉妬もし羨んだりもするが、それでも助け合えるという点に重きを置いている。

 

ただ、こんな自然状態における助け合いの精神、自由が人々には備わっているにも関わらず圧政者に隷従することがなぜ起きてしまうのか???

 

理由①:習慣

人は確かに力によって強制されたり、打ち負かされて隷従することがある。ただ、隷従するや否や本来人間が持つ本性が変わってしまい、自由だったことをいとも簡単に忘れしてしまい、自発的に隷従する。それに慣れた人たちの子供もまたその子供も生まれたその状態で満足する。圧政者によって色々と奪われているのも知らないで。

また、教育と習慣によって身につけた事が自然と化してしまう。

 

だからこそ自由とは圧政者を倒すことではなく、圧政者に力を与えず、民衆は常に自由を求めることにあるとボエスィは言う。

 

理由②:圧政者の存在

圧政者には3つの種類があり、

 

Ⅰ 民衆の選挙によって選ばれ国を支配する者

Ⅱ 武力によって国を支配する者

Ⅲ 家系の相続によって国を支配する者

 

がある。

ⅡとⅢに関しては分かると思うので割愛するが、Ⅰに関してはまさに現代の民主主義だ。ボエスィは結局その者も他人より高い地位にいるのだと勘違いしその座から絶対に降りないと考えない場合にのみⅠは許容できるという。だが結局3つとも支配に至る手段は違えど、支配の容態は同じようであると。

 

そしてこれらの圧政者が支配をより強固にする仕掛けとして5つある。

 

Ⅰ 遊戯→芝居、賭博、剣闘士、劇などの娯楽

 

Ⅱ 饗応→民衆を折に触れて饗応することでその者たちは満足する

 

Ⅲ 称号→その者が欲しがる名誉職などを与えること

 

Ⅳ 自己演出→自らが持つ権威に神秘性を持たせる

 

Ⅴ 宗教心の利用→民衆の宗教心を悪用する

 

理由③:小圧政者の存在

習慣と同じくこの人たちの存在がかなり大きい。

圧政者の下には彼に従った方が有利と考えて自発的に付き従う者(小圧政者)がいて、その下に同じような小圧政者もどきがいる。つまり自発的隷従の連鎖がどんどん強くなる。そしてその中にいない民衆は上記の娯楽などを通して自発的に隷従するようになっている。

 

では、どうすれば自発的隷従をしなくなるのか???

詳しくは書いてなかったが、個人的に上記の友愛・兄弟愛をもつことが重要かと思った。友愛は善人同士の間にしか存在せず、お互いの尊敬無しに生まれない。恩恵などの私情、利己心、暴力などの力によってではない人間関係を持つことを認識すべきである。

 

その他

・ボエスィは体制打破主義者でも、アナーキストでもなく、加えて革命推奨主義者でもない。

 

・ルソーはボエスィのこの論文を読んだかどうか分からないが、少なくとも「自由」の考え方に関してはかなり影響を受けている。

 

 

個人的な感想

上記のように私はこの本を初めてフランス語で読んだ。

その新鮮さに難しいながら少しずつ読んだが、私は彼の「人間観」がとても好きになった。前回紹介した『君主論』で書かれているマキャベリの人間観はTHE性悪説といった感じで読んでいてどうしても心苦しくなっていった。余りに人間について一面的過ぎる見方じゃない???と。だたボエスィは自然が与えた個々の「違い」があるからこそ助け合って、友愛の精神で生きていこうという考え方。素敵だ。

 

また、今でこそ当たり前とされる人間の本性は「自由」で自然権としての「自由」の重要性を今から500年も前に書いているのは本当にすごい。

アリストテレスのように自由や平等より重要なのは「善」という。ここまでくるとよく分からなくなるが、圧政に民主主義で選ばれた者(私利私欲に溺れないというのが条件)も圧政者に入るとなると、その条件を満たした者以外にどんな社会をイメージしていたのかとても気になる。

 

長々と話してきたが、現代社会、政治にも当てはまることがある様に思う。

読んだことのない人は是非読んでみてください。